除染作業で出た汚染土などの仮置き場に積み上がる無数のフレコンバッグ=福島県富岡町で、本社ヘリから森田剛史氏撮影
↑ 福島原発1号機の爆発直後
冷却に水を用いる原子炉において冷却水喪失などで被覆管が高温になった際、冷却水や水蒸気が高温のジルカロイに接触すると酸化還元反応で酸素が奪われ水素が発生し爆発した。
2号機爆発は1号機爆発の10倍をこすの放射能を拡散、
3号機爆発は、1・2号機爆発とは煙のベクトル (大きさ、向きを兼ね備えた量、色)が異質。
(米原子力技術者 mark1,mark2,mark3 取扱い専門家)
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圧力容器のジルコニュウム 格納
広島原爆の4023倍の放射性セシウム
東京電力は2012年5月24日、大気中に放出された各放射性物質ごとの試算値をまとめた(希ガス:約500PBq=50京 Bq、ヨウ素131:約500PBq、セシウム134:約10Pbq、セシウム137:約10PBq、放射性ヨウ素換算値:約900PBq)[88]。5月25日、オンライン健康情報誌のExamine.comは、2011年3月中に放出された放射性セシウム総量を取り上げて、チェルノブイリ原子力発電所事故の4倍、広島原爆の4023倍と報じた。(Wikipedia)
「優しく生きることと原子力」
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戦後70年
フランス、ロシア、アメリカ、イギリス、日本等の
恐るべき 海洋投棄、シベリア凍土に野積みの実態
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小出裕章氏「原発と戦争を推し進める愚かな国、日本」出版記念講演会
冷水に少量の金属セシウムを加えると爆発する セシウム-137(137Cs)は、半減期 30.1年
.............. .............. .............. ウラン235:半減期 7億年 ウラン238:半減期 44億6000万年 3号機爆発直後の<衛星写真> : ニューヨークタイムス
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川べりの狂煙くぐり爆心へ
山根巳代治さんの原爆二度体験
1945年8月、篠山市味間南在住の故山根巳代治さんは、あの苛烈凄惨な原爆を二度---広島と長崎で---遭遇されました。 その状況をご存命中の2001年、山根さんにお聞きし、要約しました。《長崎編》
1945年8月9日 長崎↑
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しかし宇品港は壊滅。出航不能、長崎へ行け、との命令。とはいえ広島駅も壊滅。軍用トラックと汽車を乗り継ぎ、炭水車の上にしがみついて下関へ。そこで山陰線廻りで来た本隊と合流。人目につかないように山中を通り長崎へ。
八月九日長崎 11時過ぎ 空襲警報解除
また落下傘「船に乗れ!弦に伏せろ」
長崎駅に着いた機材を整理し港まで運搬の命令。一小隊を連れて危険物を海上輸送した。一段落し小休憩。そのとき空襲警報。敵機がいるのに広島と同じように空襲警報の解除。そしてまた落下傘が…広島と同じ新型爆弾だと直感、兵隊に命じた。
兵隊は空襲警報が解除になっているのになぜ、というものがいたが「急げ」と命じ船縁の弦に伏せさせた。操縦できるものは自分だけであったので自分だけ体を伏せずに操縦。二分も行かぬうちに爆発。船は転覆した。
十分ほどたって集合をかけると全員海から泳いで上った。
隊へ帰ると「被害は相当らしい。爆心地の状況を偵察に行ってきてくれ」「昼飯はまだです」「走りながら食え」と言われ走りやすい地下足袋で爆心地へ走った。 前を走る兵隊の背中に、にぎりめしの飯ごうを置き、交代して食べながら走った。(軍隊の命令は天皇の命令。生命より重い)
半身火傷
そのまま爆心へ走る
市街は一面火の海。至る所、建物の焼ける音と「助けてくれ」などのうめき声、泣き声で騒然とした生き地獄。しかしどこから爆心地へは入るか。入るところが見あたらない。川を見つけ川沿いの火の粉の中を突っ走って爆心へ。
爆心の中は人はもちろん建物も木も立っているものは何もない。先ほど通ってきた喧騒地獄とはうってかわってうそのような静寂・・・
爆心地
遠い山だけ立つ地獄
焼野が原には瓦礫の隙間に埃まみれの生首がごろごろ転がっていた。片腕だけちぎれていたり足だけがちぎれていたり、まともな死体は一つもなかった。
初めは死体を板切れに載せて顔が見えるように置いていたが次から次あまりの多さにあきらめた。駅までの道路を作るための調査なので、巻き尺で川からの距
離を測り被害の状況を記録した。当番兵が誰かの足音がついてきます、身を震わせてかぶさるようにのしかかってくる。「もっと離れて歩け」と言うのだがくっついてくる。
その後の伝令兵も同じように当番にくっついている。自分たちの足音が静寂の中にこだまして、追ってくるように聞こえるのだった。
調査が一段落して休憩しようとしたが、大地は焼け、木も発火するぐらい熱い。腰をおろすところがない。足の裏も熱くて立ち止まれない。
足踏みして小休止
そのとき…
当番が「赤ちゃんの声がします」という。この灼熱の中、生きとるはずがない、猫と違うか、と言ったものの確かに聞こえるような気もする。故郷の長女の泣き声の空耳かとも思ったが五十メートル範囲を捜せ、と命じた。
兵隊とことにした。大きな木が引きちぎられたように倒れているところにで、この木屑の下から聞こえます、という。そこは吹き溜まりで木切れの吹き寄せられ山のようになっていた。兵隊は、スコップはおろか手袋もない。木は燃えるほど熱い。
素手で木切れをのけいくうちに、「これ人間の背中と違いますか」と兵隊がいう。
私も木をのけた。ようやく服のチェックの模様が見えてきた。
しかしそれは皮膚であっ た。やっとのことで木と瓦礫を取りのけると若い母親が腕で子どもをかばいながら乳を含ませたすがたのままで四つばい倒れていた。乳児を赤十字病院に届けさせ「水をあげましょうか」と言うとゆっくりとうなずき、ごくんと音がして喉を落ちた。何か言うことありますか。…口が動くが声にならない。もう一度水をあげるとごくんとまた音がした。そして「兵隊さん……」「何ですか、子どものことですか。子どもは大丈夫ですよ」
「……私たちが……なぜ…なぜ……」と言いつつ母の息は絶えた。
遺体は板の破片に載せ顔だけ出して葬った。
「このときの母の声が今も忘れられない。」としみじみ語る山根さん。
帰篠後は、ヘッドライトに目が眩むなどの放射能後遺症のため入退院を繰り返し、また歩行の不自由と闘い続けてきました。その上に原爆症への恐怖と偏見、差別が重なります…。
このように原爆は、二重、三重に、筆舌に尽くせない苦難を与え続けてきました。
「戦争をしてきた我々はその償いをしなければならない。これからも聞いてくれる人がいる限り、出向いて語りたい。特に女性や、若い人に知って欲しい。
と言われたいた山根さん。原爆や戦争を知らない私たちはこのお言葉に、少しでもお答えしなければと痛感します。
燃えさかる 周煙くぐり爆心へ
爆心は静寂地獄 熱地獄
足ぶみしつつ小休止とる
「何で…なぜ…」原爆の母 稚児遺し
[ 録音起こし・要約 石田宇則 ]
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ピカドンの暗き猛煙 二度くぐる
一本の鉛筆あれば 「8・6朝」
篠山千八百余の戦没者追悼
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